A1,浄土真宗は戒名ではないのですか?

浄土真宗では「法名ほうみょう」を用います。

浄土真宗では仏弟子ぶつでしとなった証のお名前に「法名」を用います。その理由としては簡単に言ってしまえば「浄土真宗」は他力本願の教えだからです。
本来「戒名」とは、仏道修行を志す際に師である僧侶に戒律を授けられ、これを守ることを約束して「戒名」を授けられます。
しかし、親鸞聖人しんらんしょうにんは戒律ではなく、阿弥陀様より賜る「ご信心」によって浄土往生が定まることをあきらかにされたのです。
戒律を守り、行を行っていくのは自力の教えです。しかし、親鸞聖人が説かれたのは阿弥陀様におまかせをする他力の教えでした。ですので、浄土真宗の教えに生きる私たちは仏弟子としての名乗りを「戒名」ではなく「法名」でいたします。
法名は本来、私(わたくし)の名乗りですので、できる限り生前にご本山や別院で帰敬式ききょうしきを受け、法名をいただきましょう。葬儀などで寺の住職がつけるのは、あくまでもそういったご縁のなかった方に対しての緊急措置ですので、まだ法名をいただいていない方は、お寺の住職に相談して帰敬式を受けましょう。

法名の文字数

浄土真宗の法名は原則2文字です。その上にお釈迦様の弟子の名乗りであります「しゃく」の字ををつけて、「釋○○」の計3文字が法名になります。当寺の住職の法名は「賢証けんしょう」ですので、「釋賢証しゃくけんしょう」となります。
以前は女性の場合、「釋」の後に「尼」という文字を入れて「釋尼○○」と表記することもありましたが、近年では男女の区別をせず、ともに「釋○○」の3文字でおつけをする傾向にあります。

他力本願とは

 上の文章で、「他力本願」という言葉が出てまいりました。この言葉、「他人の力をあてにする」といった意味で使われることが昨今では多いですが、これは誤用です。辞書によってはきちんと「誤用が定着したものか」という文言が付与されているものもあります。
他力本願の意味を考えていく際に、考えたいのは「本願とは誰の願いなのか」ということです。この本願が私の願いであるならば「他人の力をあてにする」といった意味にもなるかもしれませんが、そうではありません。ここで言う「本願」とは、「阿弥陀様の本願」なのです。浄土真宗で最も大切にされている『仏説無量寿経』というお経に

設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念。
若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗正法

仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』「巻上」

たといわれぶつたらんに、十方じっぽう衆生しゅじょう至心信楽ししんしんぎょうしてわがくにしょうぜんとおもいて、乃至十念ないしじゅうねんせん。もししょうぜずは、正覚しょうがくをとらじ。ただ五逆ごぎゃく誹謗正法ひほうしょうぼうとをばのぞく。

とあります。これは
「われにまかせよ、我が名をとなえよ、浄土に生まれさせて仏とならしめん。もし、それが実現できないのであれば私は仏とはならない」
という願いであり、誓いです。
そして、親鸞聖人は

他力といふは、如来の本願力ほんがんりきなり。

教行信証きょうぎょうしんしょう』「行巻」

とおっしゃっています。つまりは他人任せにすることや、自然や社会の恩恵などが他力なのでは無く、阿弥陀様のご本願より起こる、衆生を救うおはたらきこそが「他力」なのです。
「他者である阿弥陀様が私を救う力」それが、「他力」です。他にも、阿弥陀様が他者である私を救う力として「利他力」と仰った先生もいらっしゃいます。どちらも、力の主体は阿弥陀様であり、他の何物でも無いのです。

浄土真宗で否定される「自力」のはからい

「自力を否定して、自分で何もしないなんてそんな怠惰で反社会的な教えはおかしい!」こんな批判をされることが時々あります。これは、大きな勘違いです。
親鸞聖人の仰る自力とはいったいどういったものかというと

まづ自力じりきもうすことは、行者ぎょうじゃのおのおののえんにしたがひて、仏号ぶつごう(阿弥陀仏以外の仏名)を称念しょうねんし、善根ぜんごん修行しゅぎょうして、わがをたのみ、わがはからひのこころをもつて心口意しんくいのみだれごころをつくろひ、めでたうなして浄土じょうど往生おうじょうせんとおもふを自力じりきもうすなり。

親鸞聖人御消息しんらんしょうにんごしょうそく

このように仰っています。要するに自分の力を当てにして、浄土へ往生をしようという心を自力と仰っているのです。それは、仏様を拝んでいながら「仏様より自分の力を頼りにして往生を遂げようとしている」ということに他なりません。これは、ひいては仏様を軽んじることにもなり、親鸞聖人は強く戒めていらっしゃいます。
ただ、ここで注意したいのは親鸞聖人が戒めた「自力」という言葉は、あくまでも「自分のはからいを浄土往生に役立てよう」とするはからいのことです。決して自分の行為全般や、日常生活の中で努力することを否定したわけではありません。
このように浄土真宗で使われる「他力」も「自力」も誤解や新たな意味が付与されて、それが一般に定着したものが多くあるのです。そこから生まれたのが、この項の冒頭で書いた批判です。

最後に

A1からいきなり回答が長くなってしまいました。A2以降はもう少し端的にお話しできるように努力いたします。
なぜ「法名」なのかというお話から、浄土真宗の教えの中心となる「他力本願」についてお話をいたしました。
親鸞聖人をはじめとして、この他力の教えに生きた方々の生涯は決して「他人の力を当てにして自分は何もしない」なんてことはなかったでしょう。
往生成仏の道(私のいのちの行き先)を阿弥陀様におまかせしていたからこそ、いかなる苦難であってもその苦難を乗り越え、力強く生きていかれたことと思います。他力がはたらいているからこそ、自分自身を見つめ、阿弥陀様を拠り所にして積極的に生きていくことができるのです。また、親鸞聖人は

薬あり毒を好めとそうろふらんことは、あるべくもそうらはずとぞおぼえそうろ

『親鸞聖人御消息』

とも仰っています。
他力があるからといって何をしてもいいかというとそんなことはありません。「薬があるから」と言って毒を好んで飲む人はいないでしょう。「よく効く胃薬があるからといって暴飲暴食をする」こんな愚かなことはありません。
親鸞聖人は薬を「他力」毒を「悪行」にたとえていらっしゃるのです。薬があるからと毒をすすめていいはずはありません。親鸞聖人は「悪行はならぬ」とこの文で強く戒めていらっしゃいるのです。
この教えを受け、他力のおはたらきをうけ「自分のいのちの行き先はもう大丈夫」と安心の心の中で、日々の生活を精一杯生きていく。その名乗りが「法名」なのです。

 

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