六月の法語 人は慣れると 手ですべきことを足でする

 今回は、前回の法語の更新からさほど間を開けず更新いたします。(とはいえ、前回が一か月以上。しかも掲載期間が終わってからの更新になったのでこれでも十分遅いのですが。

6月の法語は

人は慣れると
手ですべきことを
足でする

です。

 蓮如上人というお方は、本願寺の第8代目の宗主で、「本願寺中興の祖」とも言われるお方です。今回引用した文章は

前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。神にも仏にも馴れては、手ですべきことを足にてするぞと仰せられける。如来・聖人(親鸞)・善知識にも馴れまうすほど御こころやすく思ふなり。馴れまうすほどいよいよ渇仰の心をふかくはこぶべきこともつともなるよし仰せられ候ふ。

『蓮如上人御一代記聞書 末』

というご文の一部を、私なりに意訳したものです。
 人は慣れると、神様にも仏様にも、尊敬する相手に対しても気安く接するようになってしまいます。しかし、深く知り、慣れ親しめばこそ、畏敬の念を深く持つことが大切であると示されています。

 私もこのような経験が多くあります。私が学生のころの話です
 浄土真宗を学ぶ大学院に通っていた私は、聖典をいつも開いておりました。浄土真宗では、僧侶門徒に関係なく必ず習う作法があります。それは「聖典を開くときは、必ず額におしいただく」という作法です。
 私もその作法は体に染みついておりますので、聖典を開く前には必ず額におしいただいてから開いておりました。忘れずに行うことが出来たのは、私を取り巻く様々なお育ての賜物でありましたが、肝心の私は慣れてくるとだんだんその作法が雑になってくるのです。何のためにおしいただいているのか。それは、お釈迦様が説かれたお経が示されているから。そして、親鸞聖人をはじめとする方々の教えが説かれている大事なものだからです。
 しかし、日々繰り返しているうちに作法が雑になり、片手で扱うこともありました。これでは何のためにおしいただいているのか、大切な聖典をただのモノ扱いしている自分がそこにおりました。

 私達は日々の生活の中で、慣れてきたからこそ大切なものをないがしろにしてしまうことは無いでしょうか。仏教にかかわるところだけではありません。家族や大切な方に対してのふるまいが雑になっていることは無いでしょうか。
 私も連れ合いに対してのふるまいが、慣れてきたからこそ雑になってしまうことがあります。大切でいつも一緒にいるからこそ、慣れからくる雑さがそこにありありと現れてしまうのです。

 大切だからこそ、慣れ親しんでいるからこそ、自分自身のふるまいが雑になっていないか。改めて考え、感謝と敬意をもって接することが大切なのです。

-掲示伝道, 日日慶念寺(ブログ)

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