
寝違えてしまったのか、右肩がとても痛いここ数日。
何かをしたら痛いというよりも、じんじん痛いのです。何なら、手をブランとしている時が痛い。
早くよくなってくれるといいなぁ。
さてさて、今月の掲示は
「あたりまえの大切さに目をむける」
です。
私たちの日常は、あたりまえに満ちています。
そして、そのことに何の疑問も持たずに生活しています。
私で言うのならば、朝起きてまず本堂でご本尊様にお参りして、朝食を食べて仕事や学校に行く家族を送り出す。
これが、私のあたりまえの日常です。
きっと、「あたりまえ」は人の数だけあるのでしょう。
そしてまた、私のあたりまえの日常の話を
「それが何より大切なんだよ」
と思う方もいらっしゃることだろうと思います。
私たちが思っている以上に、あたりまえというものは移り変わっていきますし、突如として終わりを迎えることもあるのです。
そう。
あたりまえの大切さに気付くのが失ってからでは遅いのです。
今一度、自分の周りにあるあたりまえに目を向けて、その大切さを感じることはとても大事です。
そして、その大切さを感じた時に、本当の意味で「あたりまえ」のことはないという事に気づくことが出来るんです。
そう。掲示板の記事でよく書いていることでありますが、様々な縁が縒り合わさって今の私たちがあります。
1人として同じ人間がいないように、全く同じ因縁により現在がある人など、存在しようがないのです。
そんな私たちが出会い、縁あって今の「あたりまえ」をともに生きている。
これを「有難い」と言わずしてなんと言うのでしょうか。
「あたりまえ」の対義語は「有難い」という事をご存じの方は多くいらっしゃるかと思います。
しかし、対義語だから正反対の場所にあるわけではありません。
私たちの見方が反対なだけなんです。
「あたりまえ」はそのまま「有難い」に展開していくのです。
「あたりまえ」に満ちていた日常は、本当は「有難い」に満ちていた。
「あたりまえ」の日々の中で、時々でいいからその大切さに目を向けて、もう2度とこない「有難い」日々を過ごしていることを感じていきたい。
そう思い、今月の掲示を
「あたりまえの大切さに目をむけよう」
にいたしました。
5月の法話会
5月の法話会は24日(土)14時から
「宗祖降誕会」を行います!
講師はなんと、京都で学ぶ学生さん。そして、住職が勝手に師匠とお慕いしている。葛野洋明先生がいらっしゃいます。
多くのお聴聞でお迎えしたいのでぜひぜひお越しください。
特に難しい決まりはありません。
手ぶらで、普段着でOKです。もしお持ちでしたら、お念珠と式章をお持ちください。
ご希望の方には、お一人につき1本式章を差し上げます。
ご法事やお葬儀のご相談はお気軽に
慶念寺とゆかりがない方でも、ご法事やお葬儀のご相談はお気軽になさってください。
「火葬だけしたんだけどやっぱりお経をあげて欲しい」「派遣でお坊さん呼んだんだけど、以降連絡が出来ない」
そんなご相談も承ります。もちろん、その他のご相談もお気軽にお尋ねください。相談のみでも大丈夫です。
できる限り丁寧に対応いたします。
の問い合わせフォームからでも結構ですし、お電話でのご相談も承ります。直接いらっしゃる場合は一度ご連絡ください。