変わらないために変わる努力

 最近は、マスクをしていない方を探す方が難しいです。新型コロナウイルスを機にずいぶんと生活習慣が様変わりいたしました。慶念寺でオンラインでの試みを増やし始めたのも、この状況が機となったと言えると思います。

 昨日、浄楽寺様へ布教出講したというお話をいたしました。浄楽寺様でお話したことの中で、私が最近思っていることを今日は書きたいと思います。
 お寺というのは、うちのような新しいところは別にしても、しっかりと歴史があるところがほとんどです。そして、うちのような新しいところでも、お寺としての在り方は、既存のお寺と全然まるっきし違うかというと、そうではありません。お寺の魅力の一つに「変わらない存在である」ということが言えるのではないかと思います。ご先祖様が変わらずに継承してきてくださったお寺。昔から、地域の方が集まるお寺。もちろん歴史的・文化的な面でもそういったことは言えると思います。しかし、そういった中で、私達が忘れてはならないのが、

「変わらない存在であるためには、変わり続ける努力が必要である」

ということです。ずっと心の中にはあったのですが、人前で話すことはありませんでした。具体的な例を含めないとわかりにくいからです。それを、法話会の中で話そうと思ったのはお手洗いを借りたときでした。ピカピカに整えられたお手洗いでした。

 私が子どものころは、まだまだ和式のトイレと洋式のトイレが良くて半々くらいの割合でした。でも今はどうでしょうか。おそらくほとんどのお寺のお手洗いは洋式に改装されているのではないかと思います。また、本堂でお参りしているときはどうでしょうか。全席座布団もしくは畳にじかに座るというお寺、今はどれほどあるでしょうか。おそらくほとんど残っていないと思います。

なぜか。

お参りしにくい。もしくは出来ないからです。

 ほかにも、お寺のちょっとした段差など、配慮が加えられているところが多くあると思います。設備面ではこれだけ変わっている。

あくまでもわかりやすい設備の面だけでお話しましたが、変わらないための努力、変わらないでいる工夫というものには常に向き合っていかなければならないのだと思います。インターネット・掲示板・お寺での集まり方等々…

 布教の形式や儀式の進行も、作法や形式に大切な意義があり変えてはならないことも沢山あります。では、大切なことを変えないために、変わらずにあるために私には何ができるのか。そんなことを考える今日この頃です。

 浄土真宗で否定されている、自分自身の力を誇り仏さまより自らを当てにする「自力」と「努力」は違います。お念仏の教えを聞くために工夫し、努力をすること。変わっていくこと、変わってきたありかたは、決して自力などではなく阿弥陀様の本願力「他力」突き動かされたすがただと言えるのだと私は思います。

じゃあ、私に何ができるのか。そんなことに日々頭を悩ませております。

今日のブログは、ちょっと真面目なトーン。

-日日慶念寺(ブログ)